モニュメントバレーの翌日はグランドキャニオン…ではなくグレンキャニオンに行きました。名前はよく似ていますが全く違う場所です。実はここはあえて行こうと思った場所ではなく、ソルトレイクシティーに向かう途中にたまたま通った場所でした。最短距離のルートだっただけなのです。しかし、このグレンキャニオンがこの旅の最高の感動を味合わせてくれた場所となりました。グレンキャニオンはモニュメントバレーから北へ上ること距離にして100マイル、2時間ほどの場所です。このグレンキャニオン、とてつもなく巨大な渓谷でして、私が行ったのは北側のルートでした。どんなトコロかといいますと、携帯電話が全く通じません。さらに、人の気配が全くありません。車も全くと言っていいほど通りませんし、ゴミも全く落ちていません。つまり、全く手付かずの渓谷の中に道路が歩ツンとあるだけの場所。
車から出て、空を見上げると、紺碧の空と果てしない渓谷が静かにそこにありました。どんなに耳を澄ましても、聞こえるのは空を流れる風の音と、遠くで流れる小川の音だけ。風が止んだ瞬間全ての音は無くなります。完全なサイレントです。周囲何百キロの大地に囲まれて、恐らく私が生まれて始めて体験した完璧な静寂でした。もし大袈裟な表現が許されるのであれば、私はこの瞬間に古代にタイムスリップしてきた、そんな感覚です。人がいなかった時代、風と空と海があって、それだけで全てが満たされていた時代。古代から何も変わっていないだろう空気をリアルに感じ取れた瞬間です。全身に鳥肌が立ったのを確かに感じました。そして、いつか必ず私はこの場所に帰ってくると決めました。一晩でいいからここで過ごしてみたいと思ったのです。現地の看板を見た限り、キャンプ地としても使える場所のようですし、マニアックな方は興味があれば是非トライされては如何でしょうか? 街からは非常に遠い場所となるので、安全面は十分にお気を付け下さい。
続いて私が向かったのは、言わずと知れたユタ州ソルトレイクシティー。グレンキャニオンの感動でメロメロになっていた私は、ソルトレイクシティーなどどうでも良くなっていました(笑)。しかし、これを逃せば次にいつ来られるか分かったものではありませんから、半分意地になって行くことにします。ソルトレイクに向かう頃からお尻が相当痛くなってきました。トラックの長距離運転手さんはしょっちゅう体を壊していますが、その辛さが1%だけ分かったような気がします。グレンキャニオンからソルトレイク中心部までおよそ320マイル、時間にして5時間半ほどの道のりです。この日はモニュメントバレーから出発してそのまま走っていた日でしたので、時間的に休憩を度々挟むこともできず、ぶっ続けで走り続けました。
そしてやっと付いたのが夜の7時ごろ。知らない街で夜に宿探しをしていると、何かと面倒なことになりそうな気がしていたので、ギリギリセーフでした。宿をとって、日が沈む前にソルトレイクを一目見ようと行って見たところ、「う~ん、何だか琵琶湖のようだ…。」特に驚くほどのモノでもないような、そんな感じ。塩がどっかり積もっている場所をイメージしていたのですが、時間もなく見つけられませんでした。世界最高速グランプリが行われている聖地、ボンネビルを見たかったのですが…。次にソルトレイクを訪れる時は、是非ボンネビルを訪れたい、そう切に願いました。
翌朝、ソルトレイクからラスベガスへ帰還するために車を走らせました。I-15という南北に長い道路をひたすら南下します。こちらは6時間ノンストップで走りました、というのも飛行機に乗って日本へ帰国する日までもうわずか2日しかなく、ちょっと焦っていたからです。トータル約2600マイルの長いドライブでしたが、アメリカの卒業旅行と思えば、走り足りないくらいです。もうしばらくはこんな機会も無いでしょうから本当に行って良かったと思います。この先、日々の仕事に忙殺され、そうそう旅に出ることもできなくなるでしょう。しかし、私を含め、日々身を粉にして戦う社会人の皆様も、年に一度くらい気持ちをクリアーに出来る機会を設けてみるのも良いのでは、最後の旅を終えてそう思いました。話が少しそれましたが、ラスベガスへ帰還した後、身辺整理をして何も無くなった部屋を見回すと、やはり名残惜しい気持ちが芽生えます。いいことがあった時も、嫌なことがあった時も、この部屋で自分自身を見つめ、考え、打開してきました。この部屋から見上げたラスベガスの空はいつも青空で、途方に暮れて空を見上げた頃が懐かしく思えます。「さぁ家へ帰ろう」思わず独り言がこぼれてきます。空港までは大先輩の小磯さんに送っていただきました。朝早くにもかかわらず送っていただき、最後の最後まで人の助けと支えの中で生きている自分を思い知らされます。空港に到着後、うまく説明できない、何とも言えない気分になりました。
空港から見えるジェット機は私を日本へ連れて行ってくれる飛行機です。一人でアメリカにやって来て、日本へ一人で帰っていく。2年前、些細なきっかけで何かが始まり、あっという間に2年が経ち、そして今、その区切りが目の前に迫っていました。大袈裟に感情的に表現しているだけで、実際はそんな大した区切りではないのかもしれませんが、私はいつも感傷に浸って物事を捉えてしまいます。普段はいい歳をして恥ずかしいので、こんな感傷は表には出しませんが…(このコラムでは特別出しています)。大袈裟かもしれませんが、こういった感傷が私の人生を深いモノにしてくれている気がします。日本へと帰る、15時間以上の乗り継ぎフライトは苛酷でした。飛行機に乗るのは結構好きな方ですが、それでも15時間となるとやはりきつい! しかし、徐々に近づいてくる日本は私が心から愛した母国です。長い長いフライトも我慢できるというもの。
そしてついに関西国際空港に到着、久しぶりの日本の空気です。そこで確かに感じたことが1つありました。日本とアメリカの空気は匂いが違うということ。日本独自の空気を確かに感じながら、バスに乗り込み、家路を急ぎます。バスの乗り場を聞くのも日本語で通じること、バスの切符も買い間違いようがないことにいちいち感動してしまいました(笑)。空港からバスで2時間ほど走ると、生まれ育った街が私を迎えてくれます。地元の駅も随分変わってしまい、新しいビルもいくつか建っているようです。この街を2年離れていたことは景色から感じさせてもらいました。バスの窓を流れる景色の中で、出発した頃の自分と、帰ってきた自分が重なります。「ちゃんと成長できたのかな…?」外を眺めながらそんな疑問を自分に投げかけてみました。そして自宅に到着。玄関を開けると、懐かしい我が家の香りが漂ってきます。「帰ってきたんだな」このときやっとそう思えました。「これから新しい生活がまた始まるんだなぁ」これからまた新たに始まろうとしている人生の続きが、夜の向こうに待っているような気がします。そんな予感を感じながらも、この日は自宅の温かい布団でぐっすりと安堵の床についたのです。最高に幸せな気持ちです。まるでアメリカでの寝袋生活が嘘のよう(笑)。そして帰国後は友人知人から手厚い歓迎をしていただきました。2年も地元を離れていたにも関わらず、以前と変わらない様子で迎えてくれたことが嬉しくてなりません。心無き時代と言われる現代ではありますが、そんな日常の中で、誰しも心の何処かでは人と深く繋がることを欲しているのだと思います。
このコラムは全21回の長編となりましたが、いよいよ今回で最後です。これまで読んでいただいた方に心より感謝致します。今回のアメリカ修行と合わせて、このコラムも沢山の方たちの支えと励ましがあってこそ完遂できたのだと思います。アメリカで出会った方々、日本で迎えてくれた方々、全ての人に感謝をしています。今まで「人は一人でも生きていける」と、そんな甘い考えをしたこともありました。今の私からすれば、その考えに何の根拠があったんだろう、そう恥ずかしく思います。今までも、これからも、常に人に何かを与えられて私は生きていくのだと思います。そして私も誰かに何かを与えられる位の器を持っていかねばと、今日も何処かの日本の空の下で思っています。もし日本の何処かで、ハーレーを通じて、メカニックを通じて皆さんとお会いできる機会があるのならば、その時はどうかお気軽にお声を掛けてください。
数え切れない程の沢山の社会問題を抱える日本、世界ではあります。そんな社会で生きていく現代人は、かつてなら考えられなかったような、多種多様のストレスや悩みの中で生活していかなければなりません。それは私たち大人であってもそうですし、これからを生きていく子供たちも同じことだと思います。グチャグチャに絡まった釣り糸のように混乱するこの世界。そんな中で時に絶望感すら抱く人たちも多く存在します。そうでなければ自殺者が年々増加することも無いでしょう。誰が助けてくれるわけでもなく、誰かが手を差し伸べてくれるわけでもないでしょう。ドラマのようにはいきませんよね。けれど、そんな社会の中でも、自分を信じて、夢を抱き、感情を持ち、人に優しく、努力することを生きていく上で忘れなければ、まだまだ未来も捨てたモノではない、そんな気がするのです。そう思う男が少なくともここに一人居るということを発信したかったのがこのコラムの目的でした。今の若い方がこのコラムを読めば「キモい奴だ!」と思われるのが関の山かもしれません。しかし、いつか、将来読み返してもらい、努力してみることが案外キモくないと思ってもらえたら…それで私は大満足です。それではまたいつか何処かでお会いしましょう。
26歳。幼少からバイクと車に興味を持ち、メカニックになることを誓う。高校中退後、四輪メカニックとして4年の経験を積み、ハーレー界に飛び込む。「HD姫路」に6年間勤務、経験と技術を積み重ねたのち「思うところがあり」渡米を決意。現在はラスベガスHDに勤務。(※プロフィールは記事掲載時点の内容です)