今回ご紹介するのは東京都池袋の正規ディーラー「ウインドジャマー」代表、牧之瀬 保さんだ。ショベルヘッドが新車だった頃から、ハーレーのメカニックに携わってきた牧之瀬さん。彼の噂は他店のメカニックの方を通じ、前々から私の耳にしていた。「業界歴の長いメカニックの方なので気軽に話せないだろうな」と勝手に勘違いし、1年ほど前に初めてお会いしたが、牧之瀬さんは予想を裏切る人当たりのよさで私を驚かせてくれた。しかも、牧之瀬さんの魅力は技術と人当たりの良さだけではない。その経歴も非常に面白い。ハーレー界の名メカニックがかつて世界を旅したバックパッカーだったなんて、皆さんご存知だっただろうか? 全国のハーレーショップにはキャラクターの立った、面白い人物がたくさんいるが、牧之瀬さんはその中でも群を抜いた面白い体験をしてきている。今回は牧之瀬さんの今に至るまでの面白い経歴を是非ご紹介したい。書ききれない内容が多すぎるけれど、残りはお店に遊びにいって続きを聞いてもらいたい。
牧之瀬●1976年から3年間、世界を放浪していた時期がありました。タイから西に向かってヨーロッパまで貧乏旅行をしていたんです。
牧之瀬●高校生1、2年生の頃、空手の師範をしていた先輩の手伝いで、米軍の基地で武術のインストラクターのボランティアをしていたことがありました。毎週末バイクで新宿の自宅から基地まで通い、日本の中のアメリカを体験できたんです。当時まだ高校生だった僕は生徒の兵隊さんに弟のようにかわいがってもらえて。練習が終わると、基地のいろんなところを案内してもらえました。「PX」と呼ばれるショッピングセンターや、巨大な格納庫いっぱいにレーンが並ぶボーリング場など「これがアメリカか!」とカルチャーショックを受ける体験を10代で経験できました。その体験があったから「海外に出て、いろいろな世界を見てみたい」と思うようになったのでしょう。
牧之瀬●当時は海外へのお金の持ち出し限度額がありました。確か1500ドル、54万円だったかな、それだけしか海外に持っていけなくて長期旅行をするのは大変でしたよ。海外で高く売れるカメラを持ち、現地で換金したり、旅行者同士の情報交換を頼りに高く売れる香料をスリランカで仕入れてインドで売って小銭を稼いだり…。工夫をしながら、無駄遣いをしないように旅をしていました。
牧之瀬●ペラペラではなかったですけれど、基地に出入りしていた経験が役立って、意思疎通程度はできましたよ。旅をした国々では英語が第2公用語の国もあり、コミュニケーションを取るには役立ちました。英語ができたおかげで現地の人とコミュニケーションできるし、他国の旅人とも仲良くなれました。
牧之瀬●今は破壊されてしまったアフガニスタンの石窟寺院を見ることができました。今はやや物騒な中東も当時はある程度自由に旅をすることができましたから、今思うと貴重なものをたくさん見ることができましたね。思い出深い国は挙げだすとキリがないですけれど、未だによく思い出す国というと…他にはスイスでしょうか。
牧之瀬●本当はヨーロッパを旅する予定はなかったのですが、インドで知り合った友人が「スイスにぜひ遊びに来なよ」と誘ってくれて。旅の軍資金の関係から中東で旅をやめようとしていたらスイスのチューリッヒで機械工の仕事を紹介してくれたんです。アルバイト程度の仕事だろう、と思っていたら予想以上に高給仕事でね。スイスで働いてお金を貯め、まとまった休みがもらえるとヨーロッパ各地を観光して回りました。
牧之瀬●その機械工場の社長にも何故か気に入られて。どうもその社長は政治力のある人だったようで「マキが本気で望むならスイス国籍を取ってやろうか?」と言われて悩んだことがあります。スイス国籍を取るには日本国籍を捨てなければいけなかったので、泣く泣く断りましたけれど、魅力的な誘いでしたよ(笑)。
牧之瀬●普通の観光もしましたが、僕は昔からバイクや車が好きでしたから、日本でも名の通っていたバイク・車メーカーの工場の生産ラインを見に工場見学に行きましたね。
牧之瀬●いえ、単なる好奇心です。ドイツの「BMW」、「フォルクスワーゲン」、イタリアの「ドカティ」などヨーロッパ中、あちこちのメーカーの工場に遊びに行きました。
牧之瀬●断られることはありましたけれど、断られたらまた行けばいいんですよ。そうすれば何とかなるものでした。でも、僕は新聞記者でもない、ただの旅行者でしたから、日本の産業スパイと間違えられたこともありました(笑)。スウェーデンの自動車メーカー「サーブ」の工場に遊びに行ったときなんて、現地でヒッチハイクした人が「俺が連れて行ってやるよ」というからノコノコ着いて行ったら、そこは車の工場ではなく機密だらけのジェット戦闘機の工場で「どうやってここまで来たんだ?」と、あやうく逮捕されそうになりました。
牧之瀬●行きたかったんですけれど…当時のアメリカは目的もない貧乏旅行者にはなかなかビザを発給してくれませんでした。下手にビザを申請して、断れるとその記録がパスポートに残り、他の国への入国が面倒になるんです。「何でコイツはアメリカ入国を断られたんだ?」とね。だからヨーロッパでひとまず旅を終えて日本に帰国することにしました。
牧之瀬●10代の頃から神田の古本街でイージーライダーマガジン(※アメリカのハーレー雑誌)を見つけては買っていた子供でしたから「いつかはハーレー」という思いがずっとありました。帰国したとき、たまたまハーレーの並行輸入ショップで求人があり、結局そこで5年ほどお世話になることになりました。
牧之瀬●『CB750』など国産車を自分でチョッパーにしたり、カフェレーサーにしたり、自分であれこれ触ってはいましたけれど、ハーレーを触ったのはそこが最初ですね。僕の初めてのハーレー、1978年式FLHを購入したのも、そこで働き始めてからでした。このFLHでは散々トラブルを経験しました。まあ、いい勉強になりましたよ。
牧之瀬●一番の先生はマニュアルでした。マニュアルをじっくりと読んで理解し、トラブルの原因を推測していました。まとまった休みが取れるとアメリカに飛び、そこのディーラーのメカニックに整備のことを教えてもらうこともありました。勤めていたお店では、先輩も後輩もいなかったので、すべて一人で考えて解決しなければいけない。お客さんに「すいません、直せませんでした」なんて言えませんから、毎日が試行錯誤でした。そのお店での5年間で何百台ものハーレーを1人で整備・修理しましたけれど、いい経験を積むことができましたね。
牧之瀬●ハーレーのメカニックになる前から憧れていたお店でしたから。神田で買った「イージーライダーマガジン」に載っていた「ジャマーサイクル」のカスタム車両は何度も何度も繰り返し見ていましたよ。アメリカに行くのなら、寄らない手はないでしょう。そうやって何度も通っていると、当時社長だったミル・ブレア氏に顔を覚えてもらえるようになって自宅に招待してくれたり、「イージーライダーマガジン」社長のジョー・トレイシー氏を紹介してもらえたり、と嬉しい出会いがありました。
牧之瀬●1982年にお店をオープンするとき、ミル・ブレア氏が「『ジャマー』という名前を屋号に入れてもいいよ」と言ってくれたんですよ。他にもジャマーサイクルのコンプリート車両の日本での販売を任せてもらえて、ミル・ブレア氏とは永いお付き合いをさせてもらっています。
牧之瀬●「並行輸入がダメ」とは言いませんが、僕が昔に働いていたお店では整備の情報が入ってこない、リコールが効かないなどお客さんに迷惑をかけることがありました。自分がお店をやるときには「お客さんが安心してハーレーを買えるようにしたいな」思っていたんです。ですから、当時上野にあった「小川屋」さんという正規ネットワークを持つお店から正規ハーレーを分けていただいて、販売していました。「小川屋」さんの下で車両を販売していたので、お客さんも安心して車両を買えましたし、万一のトラブルにも部品を素早く手配できて助かりました。ハーレーのトラブルには「この部品があれば30分で直せるのに…」と部品が来るのを待つだけのトラブルも多かったですからね。正規ネットワークで安定して部品供給を受けられると、お客さんに迷惑をかけずに済むんですよ。
牧之瀬●今の「才川モーターサイクル」の才川さんが当時「小川屋」の番頭さんで、アメリカからメカニックを招き2年に1度開かれていた講習会のときは必ず僕に声をかけてくれました。その講習会に出たことで、ハーレーの各部の部品はどういう意図で開発され、決まった場所に取り付けられているのか、を開発者から教えてもらうことができました。経験から技術を学ぶだけでなく、設計思想を学ぶことができたのは、今も僕の財産となっています。才川さんはそれだけではなく、お客さんが探している車両やカラーの無理を聞いてくれましたし、お店を始めてから十数年間お世話になりっ放しで、僕の恩人ですよ。
牧之瀬●僕は才川さんのような先輩に助けられ、原宿の小さなお店からここまでやってきましたから、次は僕らの世代が若いショップさんを助ける番でしょう。そうやって自分が学んできた技術・知識を次の世代の人たちに伝えることで、ハーレーというバイクの魅力が若い人たちにも伝わっていくんだと思います。それが、ショベルヘッドの時代からツインカムの今までを見てきた私たちの世代の義務なのではないでしょうか。
次の世代に学んできたことを惜しみなく伝える、私もその恩恵を受けた1人だ。私の場合、高レベルな質問ではなく、子供じみた「何でこれはこういう形なんでしょうか?」のような質問ばかりだけれど。そんな質問にもわかりやすく言葉を選んで答えてくれる牧之瀬さん、その姿勢が周りのショップから頼られる理由なのだろう。この人なら安心して任せられる、そう思える人に出会うことはなかなか難しいけれど、東京には「ウインドジャマー」が、「牧之瀬 保」という名メカニックがいる。そんな人に出会えたことを私は幸運に思う。(ターミー)