VIRGIN HARLEY |  中島 昌人(サムライ・カスタムサイクルズ)インタビュー

中島 昌人(サムライ・カスタムサイクルズ)

  • 掲載日/ 2008年10月27日【インタビュー】

ハーレーインタビューの画像

見た目に派手なカスタムじゃなく
癖があって面白いハーレーを作りたい

国内トップに君臨する数々の有名ビルダーをも従える(?)陰の支配者とは、まさにこの人のことをいう……という書き方をすると偉そうで横柄な人間と連想されるが、そうではない。神奈川県央にあるUnited States Naval Air Facility Atsugi(合衆国海軍厚木航空施設)の正門近くにカスタムショップ「サムライ」を構えるタメさん。トレードマークは、麦わら帽子とビーチサンダル。人当たりの良さと気さくな会話で、業界人から一般ユーザーまで幅広く多くの人間に慕われている。しかし、タメさんの素性を知っている人はあまりいないのではないだろうか。日本ハーレー界の大御所、サムライのタメの奇想天外な半世紀と、内に秘めたオートバイ論を語ってもらった。

Interview

エンジンを触り始めたのは13歳から
それ以来ずっとバイクを触ってきました

ーいつ頃からバイクに興味を持ちだしたのでしょう。

タメ●もともとは模型飛行機を作ることに夢中だったんです。エンジン付きで、ワイヤーをつけて自分も一緒にグルグルまわるUコンという飛行機でした。戦闘機のことがいっぱい出ていたミリタリー雑誌に影響されたんでしょう。そんな風に模型飛行機のエンジンをイジっているうちに「オートバイの方が面白いんじゃないかな」と思いはじめて…それが12歳の時でした。

ーでは中学生でバイクを触り始めたのですか?

タメ●当時は今のような免許制度はなく「許可証」というものがあり、14歳から原付に乗れたんです。それが1960年の12月くらいに変わってしまって…それまでは道路取締法というものだったのですが、道交法(道路交通法・現在の法律)に変わってしまってね。原付に乗れるのは16歳からになってしまいました。あと4ヶ月のところで許可証がとれなかったんです。「それならバイクを触るしかないな」と。

ー13歳でバイクを触りはじめたんですか(苦笑)?

タメ●そう、自分で触ったバイクは家の庭で乗っていました。自宅は東京大学のすぐそばにあって、庭が130坪くらいあったので、50ccでグルグル回るくらいの広さはあったんです。

ー広い家ですね…実家はお金持ちだったんですか?

タメ●親が何の商売をやっていたかはよくわからないんです。東大農学部の横にあったバイクショップの片隅に売れないバイクがいっぱいあって、1台3000~4000円で売っているのをよく買ってもらっていました。

ー免許もない中学生にバイクを買ってくれるんですか?

タメ●僕のお祖父さんは、日本でハーレーを初めて輸入した財閥の創業家で家庭教師として雇われていました。その家の方たちが凄い乗り物好きだったらしく、その影響でウチの一族も乗り物には全然抵抗がなかったんです。

ーでは、家にはバイクを触る工具も揃っていたとか。

タメ●兄が都立高校の自動車科に通っていて、必要な工具がなかったら学校から持ってきてくれていました(笑)。だから、家には一通りの工具が揃っていたんですよ。

ーそれで本格的にバイクを触ることができたんですね。

タメ●バイクに乗れるようになると、自分で触ったバイクであちこちにツーリングへ行ったり、古い外車を直したりしていましたね。18か19の時からはレースを始めました。昔はレースと言っても、解体屋で「これはイケそうだ」という車両を手に入れて、自分で改造するのが当たり前。初めはガスデン(日本最古に近いメーカー)の250KB型。それをチューニングしてモトクロスレースをしていました。マツダの軽3輪を買って、それにバイクを積んで荒川の河原でよく練習しましたね。

ーそのままバイクに夢中になり、お店を始めるようになったんですか?

タメ●バイクレースが世間的にメジャーになってくると、FRPで外装を作るとお金が稼げる時代になってきたんです。それが1969年くらい、僕が23歳の時。もともとFRPをやっていたので仕事を頼まれることが増えてきて、自然と商売っぽくなりましたね。その頃はFRP屋なんて近所にありませんでしたから。安いメグロ250などをベースにしたサイドカーのボディなどを作っていました。

ーチョッパー製作もその頃から?

タメ●たしか71年の2月が4月だったかな。イージーライダーが封切りになってすぐに見に行って…むちゃくちゃな衝撃を受けました。今の人が見ても当時の衝撃はわからないだろうけど…。それ以来、チョッパースタイルのタンクを作ってくれとかフェンダーを作ってくれとかいう人が凄く増えてきました。それで自分でもチョッパーを作って、第2回モーターサイクルショーに出展したんです。ベースはホンダの「SL90」。自分でフレームを切り、パイプを曲げてリジッドフレームにしたチョッパーでした。

バイクは癖があるくらいが面白い
乗りやすいバイクじゃつまらない

ー引越しで東京を出てからはあちこちを転々としたようですね。

タメ●1971年に家族で神奈川の逗子に引っ越ししたんです。当時の逗子のあまりの田舎さにビックリしましたね。それまでは、有楽町生まれで東大のすぐそばで育ち、東京しか知らなかったですから。「何もない。もの凄い田舎だ…どうしよう?」って(笑)。東京では部品が欲しければ、御徒町(上野の近くの問屋街)に行けば何でも売っていましたからね。

ーそんな環境でショップをはじめたんですよね?

タメ●初めはショップではなかったんですけれど、すぐにマグロの三崎漁港で有名な神奈川県の三浦に共同経営で「ダイダラボッチ」というショップを作り、そのあとに葉山で「ジローズ」。その後に米軍の厚木基地がある鶴間に引っ越して「コスモポリタン」という名のショップをはじめました。当時の鶴間は以前と違って、パンチパーマに45度サングラスの怖い人たちがいる街で、最初はびっくりしましたね(笑)。

ー厚木基地が近いからアメリカ人のお客さんが増えたのでは?

タメ●その前のショップのときからよく来ていましたよ。葉山の時は横須賀基地が近かったですから。当時のアメリカ人でハーレーに乗っている人はほとんどいなかった気がします。ホンダのCBやカワサキのZ、スズキのGTなんかが人気でしたね。基地ごとにモーターサイクルクラブ(MC)があって、Gジャンの袖を切り、背中にクラブのカラーをつけた、ムチャクチャなヤツが多かったです。

ーどんなところがムチャクチャ?

タメ●基地の外国人は特権みたいなものがあって、車検はどんな車両でも平気だし、飲酒運転しているヤツも多かった。酔っぱらって全裸でバイクに乗って、河原を走り回るヤツもいました。70年代はそんな連中がいたんですよ。まだ、ベトナム戦争を引きずっている奴が多かった。そういう連中と仲が良くて、タンクの塗装とかエアブラシは全部僕がやってあげたんです。

ー彼らはなぜハーレーに乗っていなかったのでしょう?

タメ●当時新車で販売していたショベルヘッドのことを、彼らは“トラブルヘッド”って言っていましたよ(笑)。ハーレー乗っているのは日本人の方が多かった。外国人のハーレー乗りが増えたのはエボリューションエンジンになってからです。

ーちょうどエボリューションエンジンに変わった頃に、今の神奈川県綾瀬市に移転してきたんですよね?

タメ●アメリカ人を基地へ送っている時に、この場所を見つけました。不動産屋と話してみたら、たまたまハーレー好きで、すんなりと借りることができたんです。それが1985年のことでした。

ーサムライという名前の由来は?

タメ●基地の連中から見ると、僕は禁欲的に見えていたみたいで「おまえはサムライだ」と言われていました。それが由来です。朝から必ず仕事をしたり、怪しいクスリを勧められても断ったりしていましたから。「オートバイを触るのがうまくなるならやる。それ以外はやらない。セルフコントロールが大事なんだ。」と、言ったら「サムライ」だって(笑)。

ーサムライをはじめた頃には、もうハーレーのお客さんが中心になっていた?

タメ●コスモポリタンをやっていた頃から、並行輸入でハーレーが安く入るようになっていたんです。今のダイナにあたる、FXEというモデルが120万円ほど買えるようになっていましたから。その頃はヤマハのXS650に乗っているお客さんが多かったんですけれど、少しずつハーレーに乗る人が増えてきましたね。

ーそれだけハーレーが面白かった、ってことですよね?

タメ●そうです。今これだけハーレーがあるのは、やっぱり「乗って面白いから」が一番にくるでしょう。バイクは面白くなきゃいけない。ホンダのCB750が出た頃は日本車でもそう感じさせてくれるバイクが多かった。でも、80年代になって、速いけど全然面白くないバイクが増えてきたんです。低回転から高回転までパワーがあって乗りやすいのは、自動車でイイと思うんですよ。

ータメさんが思うバイクとは?

タメ●乗りづらくて癖があること。「オレが機械をコントロールしているんだぞ!」ってところがイイんです。点火時期も手動のほうが面白かった。最近のハーレーも、ノーマルは好きではないですね。エボリューションもツインカムも、あちこち触った方がもっと面白くなりますよ。

ー振動の少ない、癖のないエンジンが好みではない、とか?

タメ●そうですね。以前、ヤマハTX500のエンジンをバラして、バランサーを外したことがあります。そうしたら凄いバイブレーションで、荒々しいフィーリングになりました。ハーレーもバイブレーションがないとダメ。ハーレーに乗っている人でバイブレーションが嫌だっていう話しは聞いたことありませんから。ツインカムもバランサー外してみようかな? 僕は改造屋ですから、そんなことを考えて実行してみたくなるんですよ(笑)。

ータメさんの改造屋としてのポリシーを教えて下さい。

タメ●お客さんが「こういう風にして」と言うことから外れ過ぎないこと。あくまでお客さんをサポートする立場ですから。カスタム案は提示しますが、3歩先まで行ってしまったらダメ。せいぜい一歩か半歩くらいの案に止めます。派手で見栄えがいいカスタム車両を製作したのに、お客さんが求めるイメージとは違っていると長く乗ってもらえない。そんな光景をさんざん見てきましたから。

ーいつ頃から、そう思うようになったのですか?

タメ●77年のイージーライダース誌に載っていたカスタムされたショベルヘッドを見たのがきっかけでした。派手さはないけどかなり手が入ったカスタムで、それがカッコ良かったんですよ。あまりのショックで何日も立ち直れなかったほど。それ以来、「なんだ、派手にしない方がカッコ良いんじゃないか」と思うようになりました。昔は屋根が付いた3輪のチョッパーみたいに派手なバイクを作ったこともあったんですけれどね(笑)。

プロフィール
サムライのタメ
61歳、東京都出身。本名は中島昌人。かつての人気お笑い番組で“アッと驚くタメゴロー!”と叫ぶヒッピーの格好をしたハナ肇に風体が酷似していたことから、タメさんと呼ばれはじめ、今に至る。「サムライ・カスタムサイクルズ」代表。

Interviewer Column

暖かい日差しの元で、いつものようにくわえタバコ&ビーサンのタメさんに話をお聞きした。過去の取材や酒の席などで、サムライに至るまでの話を幾度となく聞いていたが、聞く度に知らないエピソードが出てくるなど、タメさんの昔話は何度聞いても面白い。相手が誰だろうと変わらぬスタンスで対応するタメさんは、僕にとっては人生の大先輩的な存在だ。これからも日本のハーレー界の重鎮として、業界をまとめ続けてください。私と同い年の若い奥さんと二人で、末永くカスタムに情熱を注いでください。今度お邪魔するときはクーラーボックス満タンのビールを持って行きますね!(佐々木孔一朗)

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