ハーレーの旧車をメインに取り扱うショップ『鼓動館』代表の藤岡誉司さんは、かつて8耐レーサーとして鈴鹿を走り、小さい頃からの夢を叶えるため寿司職人として単身渡米するという、その略歴だけで驚異の行動力と発想の持ち主であることが伺えるユニークな人物だ。「本当のハーレーを知るには、旧車に乗ること。現行モデルにはないハーレーの鼓動をみんなに知ってほしい」という彼の熱い胸のうちに迫ってみた。
ショベルヘッドやパンヘッド、ナックルヘッドといったハーレーの旧車を主に販売しているショップ『鼓動館』代表取締役。若い頃には8耐レーサーとして活躍、その後寿司職人に転向し、さらにアメリカへ渡って修行するなど、その活動範囲は多岐に渡る。とりわけオールドハーレーのフリークとして強いこだわりを見せ、これまでさまざまな旧車を乗り継いできた。現在の愛車は1947年式FL(ナックルヘッド)。その付き合いは10年を超えるが、「いまだ絶好調」なのだとか。息子の恭典さんも1949年式EL(パンヘッド)に乗るなど、親子そろって旧車好き。
旧車をメインとする車両販売を展開するショップで、最大の魅力はオリジナルにこだわったラインナップだ。特にショベルヘッドとスプリンガー・クラシックの在庫数には大きな自信を持つ。驚かされるのは1956年式FLHが店頭販売されていること。当時200台しか生産されなかったレア車が日本にあるというのはすごい。また旧車乗りとしては気になる旧モデル用の純正パーツも多く取り揃えているなど、代表である藤岡さんのこだわりが伺えるショップだ。
藤岡 ●バイクに乗り出したのは16歳のとき。当時は限定解除が難しかった時代だけど、一発試験で合格して、スズキのGS750に乗っていました。最初はツーリングに行くだけだったけど、次第に山や峠を走るようになり、“速く走る”ことに魅せられていきましたね。
藤岡 ●そうなんです。「サーキットで走ってみたい」と思うようになり、当時ベテランの8耐レーサーだった千石清一さんの下に弟子入りしました。彼の一番弟子として鈴鹿サーキットでライセンスを取得して、レーサーとしていろんな経験を積みましたよ。
藤岡 ● ええ、8耐にも参戦しました。そんな1986年、タレントの島田紳助さんがやってこられて、千石さんを軸にした『チーム紳助』が結成されました。そこからチームの人気はうなぎ上りでしたね。
藤岡 ●いえ、その翌年に「バイクと距離を置こう」と思い、チームを辞めました。それを機に、バイクを降りてしまったんです。それから千石さんや紳助さんからも「ツーリングに行こうぜ」と何度か誘われたんですが、僕にとってバイクというのは速く走らせるためのもの。ツーリングに使うという考えになれなかった。まだ自分の中に、オンとオフがなかったのでしょう。結局、バイクは常に家にあったんだけど、乗りませんでした。
藤岡 ●寿司屋をやっていました。家族を養いながら、楽しく暮らしていたんです。そんな生活がガラっと変わったのが、この頃…1990年、29歳のときです。小さい頃からの夢だった「アメリカで暮らす」ことを実現させようと、単身渡米しました。
藤岡 ●いえ、ありませんでした。ただ、ロサンゼルスのリトル・トーキョーにあるスーパーマーケットに「日本人の寿司職人募集」という求人広告があったという話を聞いていて、もうそれだけを頼りに渡米したのです。無茶苦茶でしょう?(笑)
藤岡 ●トランクひとつでアメリカへ行き、それからビバリーヒルズにある寿司屋で働くようになりました。この1990年はハーレーのラインナップにFLSTFファットボーイが加わったときで、翌年の1991年には映画『ターミネーター2』が封切りされたんです。主演のアーノルド・シュワルツェネッガーがファットボーイに乗る姿がスクリーンに映し出されて、アメリカでも再びハーレー人気に火がついた時代でしたね。
藤岡 ●来店するバイク好きのお客さんとバイクの話をするようになって、「俺もバイクは好きだ」と言ったら、それからライダー仲間を連れてお店に来るようになりました。そして「俺のバイクを見てみろよ」と言われて、そこで本当の意味で初めてハーレーに触れました。そのときのハーレーはショベルだったんですが、「タカタン、タカタン、タカタン」という3拍子を初めて聞いて、「なんや、調子の悪いバイクやな」という印象でした(笑)。それからは、ハーレーに触れる機会が一気に増えましたね。アメリカだから当たり前なんですが、一般的なライダーからヘルズ・エンジェルス系まで、ジャンルを問わず交流が広がっていきました。
藤岡 ●ええ、もちろんです。現地での移動手段も必要でしたから、思い切って「ハーレーを買おう」と。最初、「日本だと輸入車は高いけれど、現地なら半額ぐらいになっているんだろう」と思ってディーラーを訪れました。ところが設定価格は日本とまったく一緒。「これは高い!」となり、それで中古車を探したんですが、驚いたことにハーレーの中古車の値段はすべて1万ドルで設定されていました(当時1ドル160円前後)。
藤岡 ●関係なかったですね。ビッグツインの新車だと1万3000~1万5000ドル。折り込みチラシに出ている中古車はすべて1万ドルで揃えられていました。中には8000ドルや5000ドルと設定されたものもありましたが、間違いなくトラブルを抱えている車両だから手は出しませんでした。
藤岡 ●あれだけ高いと、仕方がないですからね。それでもハーレーのカッコよさに対する憧れは持ち続けていたので、3年のアメリカ滞在を経て日本に戻った直後に、1993年式の新車のエヴォリューションをすぐ購入しました。
藤岡 ●ええ。でも、その後もアメリカへはしょっちゅう行っていました。年に3回ぐらいかな、カスタムパーツの買い付けが目的でした。完全にプライベートで、です。
藤岡 ●その当時は、「カスタム命」でした。「純正パーツを付けるなんてカッコ悪い」って思っていたんです。それから社外パーツでカリカリにカスタムしたソフテイル・カスタムを作って楽しんでいました。しかしこれほどハーレーにハマっていたにもかかわらず、ツーリングには一切興味がなかったんです。大阪から出たことすらありませんでしたよ(笑)。今では考えられません。
藤岡 ●今はもうないのですが、その当時、大阪府箕面市に『エヴォリューション』という自転車屋があって、その片隅でハーレーの車両販売もやっていたんです。そこにちょくちょく遊びに行っては、素人なりですが整備工場の脇で自分のバイクを触ったりしていました。するとあるとき、知り合いのおじさんが「そんなにハーレーが好きなら、1台あげるよ。20年以上動かしてへんけどな」と、1976年式のFLHをタダでくれたんです。
藤岡 ●それを友達と一緒にレストアして、なんとか動くようにしたんです。でも、乗ってみたら何度も壊れるし、「なんやこのバイク」って感じで、それからしばらくほったらかしにしていました。それ以降は、フロント16インチというハーレーらしいスタイルにしたFXSTCソフテイル・カスタムにばかり乗っていましたね。
そんなある日、友人がパンヘッドを購入したんですが、そいつがエンジンのメカニズムについてすごく詳しくて。で、「なんでそんなに詳しいねん」って聞いたら、「しょっちゅう壊れるから、自分で直してんねん。それで詳しくなったんや」と言われて、「じゃあショベルもきちんと直してやれば、走れるようになるかも」と思いました。
藤岡 ●その頃、先のFXSTCに取り付けていた社外のカスタムパーツがどんどん壊れていたんです。折れたり、メッキがはがれたりと、散々な状態でした。すると船場さん(大阪府東大阪市のヴィンテージハーレー専門店)から「純正パーツじゃないと、カンタンに壊れちゃうよ」と言われまして。それでよくよく見てみたら、確かに壊れているのは社外パーツばかり。ショベルの修理を思い立ったのはそんなときだったので、「じゃあ、純正パーツだけでショベルを修復したら面白いんちゃうか」と思い、それから純正パーツを集めて修理し、1976年当時のフルオリジナルのスタイルに戻してやりました。このとき、バイク専用のガレージを作りまして、ショベルを修理する楽しさに目覚めてしまいました。
藤岡 ●確かに。でも、自分で触るようになり、どこがどういう理由で不具合を起こしているのか、その原因をきちんと解明できれば問題は大きくありませんでした。結局整備がなされていない旧車だから、故障が起きて当たり前なんですよね。そんなバイクを、自分の手で補修してやって走れるようにする…これがたまらなく面白かった。朝から晩まで触っていてもまったく苦じゃなかったし、自分の手で故障箇所を見つけたときの快感は言葉では言い表せません。ショベルがたまらなく好きになってしまいました。
藤岡 ●よく時計に例えるのですが、「インジェクションモデルはGショック、そしてショベルやエヴォはロレックスなんや」と。利便性や頑丈さでいえばGショックが絶対にいいのですが、ロレックス――つまり旧車は、確かに壊れたり狂ったりと精度に問題があるけど、こだわり抜いた職人の手から生まれた乗り味がビンビン伝わってくるんです。
藤岡 ●そうです。今ではすっかりハードで濃いハーレー乗りです(笑)。ショベルにハマってからというもの、ツーリングに行くときはショベルを選ぶ回数が圧倒的に多くなりました。このときはナックルも持っていたのですが、乗り味で言えばショベルが一番。特にロングツーリングをするなら絶対ショベルですね。積載能力は高いし、長時間乗っていて楽しいですから。
藤岡 ●2005年です。それまでハーレーの販売をビジネスとして考えたことは一度もありませんでしたが、ある日、地元高槻市の中学校に呼ばれたんです。それは市が催している地域の関係者による講習会で、中学生に講釈をする場でした。そこで子供たちに、「自分がしたいこと、好きなことを仕事にするのが一番の幸せやで」と説きました。そのときふと、自分を振り返ってみて「自分がやりたいことってなんやろう」って思ったんです。それまでやっていた寿司屋というわけではありませんでしたし、アメリカに住むというのもすでに叶えてしまった。そこで「アメリカと関わりあえる仕事がしたい」というのが浮かんできて、最終的に「ハーレーに携わる」という答えにたどり着きました。
藤岡 ●それまで経営者をやっていたし、僕は根っからの野良犬ですからね(笑)。人の下について、組織の歯車になるという風には思えませんでした。だから「自分でやろう。ショベルやエヴォといった旧車を扱おう」と決めたんです。周囲からは「売れへんよ」と言われましたけどね。そしてアメリカと直接やりとりをして、旧車を輸入し、販売するという今の礎を築き始めたんです。
藤岡 ●いや、全然喋られませんよ(笑)。でも、通じさせる自信はあります。
藤岡 ●そう、そういうことです。そうして現地の業者と仕事をするようになってから、スコットという仲介業者と知り合うようになりました。当時彼の本職は内装関係の仕事だったんですが、彼はおじいちゃんの代から乗り続けているハーレー乗りで、そのコネクションから業者をやっていました。
藤岡 ●日本ではありえませんよね。面白いのは、おじいちゃんのハーレーに付いていたオーナメントを代々受け継いでいて、今スコットのフロントフェンダーに付いているんです。そんなスコットだから、たとえ旧車でも程度の良いものを入手できるし、彼から送られてくるハーレーは安心して買い取れます。今では彼も内装の仕事を辞めて、プロの仲介業者として独立し、一緒に仕事をしているんです。
藤岡 ●そのとおりです。そのおかげでもあるのですが、ウチはお客さんに対して“正直な商売”ができていると自負しています。
藤岡 ●例えば正規ディーラーだと、言いたくても言えないこととかありますよね。でもウチは、僕が好きなものを取り扱っているから、「おもろいもんはおもろい」、「おもんないもんはおもんない」ってハッキリ言っています。やっぱりお客さんには高い買い物をしてもらうわけですし、「ハーレーが好き」という思いを共有しているわけだから、言うべきことはハッキリ言うようにしています。これが僕にとってのキモの部分ですね。
藤岡 ●僕は、あの「タカタン、タカタン、タカタン」という3拍子が感じられる旧車こそがハーレーの原点だと思っていますし、多くの人が「ハーレーダビッドソン」というものに対して、そうした共通のイメージを抱いているはず。
藤岡 ●僕は職人じゃありません、乗り手です。だからひとりのハーレー乗りとして、そのモデルが魅力的なのかどうか、フィーリングで判断します。なので、お客さんに薦めるときは「おもろいでっせ!」と本気で言えるんです。
それとウチでは、アメリカから輸入した車両は一度すべてバラして、細部までチェックするようにしています。スコットからは「そこまでしなくても、きちんと程度のいいものを送っているんだから」と言われるんですが、それは彼を信用していないからじゃありません。お客さんの立場から考えたら、僕らショップがそこまでやって販売する車両のことを知り尽くしているというだけで、安心してもらえるじゃないですか。そのためには、ここまでやろう、と。
藤岡 ●ほかのショップで、ここまでスプリンガーを揃えているところがないからです。「スプリンガーなら、鼓動館」としたいんですよ。
藤岡さんの話はハッキリとしていて、彼の発する言葉は「ハーレーダビッドソンというモーターサイクルのイメージは、ショベルやエヴォ、それ以前といった旧車でしかありえない」という普遍的な論理から生まれているものばかりだった。巷では、ハーレー本来の鼓動を知らないハーレー乗りが増えていると聞くが、彼は「ハーレーの魅力は、そんなものじゃない」と憂いていた。100年以上の歴史を持つモーターサイクル、ハーレーダビッドソンの礎には、心地良い鼓動に魅力を感じ、それを楽しみながら走るという時代が確かにあった。僕も現行モデルに乗る人間だし、インジェクションという選択もメーカーが打ち出した答えであるから「インジェクションはNO」などと言うつもりはないが、機会があれば旧車に乗ってみたい、素朴に思わされた取材だった。