VIRGIN HARLEY |  芦田 剛史(ハーレーダビッドソン シティ中野店)インタビュー

芦田 剛史(ハーレーダビッドソン シティ中野店)

  • 掲載日/ 2011年08月31日【インタビュー】

ハーレーインタビューの画像

情熱に突き動かされる熱きメカニックの
ほとばしる叫びをお届けしよう

今から約7年前に単身渡米し、自由とシビアさをあわせ持つかの国で着実に足跡を残し認められる存在となった屈指のメカニック 芦田剛史。今なお国内の正規ディーラーで戦い続ける彼は、最高峰の世界を知るがゆえのジレンマを抱えつつ、生来の人懐っこいキャラクターで来訪するオーナーと触れ合い、預かったバイクの整備や点検に全力を注いでいる。スペシャリストとしての道を究めんとする芦田の内奥に潜む叫びとは、そしてその眼差しはどんな未来に向けられているのか。過酷な世界を生き抜いてきた彼だからこそ見える世界観をお伝えしよう。

Character

生まれ故郷の兵庫・姫路の正規ディーラーである広畑日産自動車 ハーレーダビッドソン事業部(ハーレーダビッドソン姫路)でH-D専門のメカニックとしてキャリアをスタート。その後、25歳で渡米し、本場ディーラーを2件渡り歩くなど、約2年間アメリカで修行を積む。帰国後はハーレーダビッドソン昭和の森、そして現在ハーレーダビッドソン シティ中野店にて整備部門の責任者を任される。その手腕に疑いの余地はなく、とりわけ診断と整備では国内屈指と言っても過言ではない。そんな彼の人柄とスキルに惚れて足を運ぶ人も少なくないとか。最近は参戦機会が減っているが、アメリカ時代からドラッグレースを楽しんでおり、自ら手掛けた Vロッドで疾走する。

芦田 剛史 / TSUYOSHI ASHIDA

Interview

車に触れ続けた10代を経て
H-Dメカニックとしての道を歩む

ーアメリカ修行コラムにメンテナンス講座と露出の多さもあって、VIRGIN HARLEY.com を長く見に来てくれている人なら芦田さんのことをよ~くご存知かと思います。だからこそと言いますか、今回は改めて「芦田剛史って何者?」というベーシックなところを掘り下げてみようかな、と。よろしくお願い致します。

芦田 ● なるほど、かしこまりました(笑)。よろしくお願いします。

ー出身は兵庫県姫路市ですね。育ちも姫路ですか?

芦田 ● そうですね、25歳まで姫路で育ち、働いていました。

ー略歴を教えてください。

芦田 ● 最初に就職したのは地元の自動車整備工場で、高校を1年で中退して飛び込みました。当時は車が大好きで、車関係の仕事に就きたかったんです。小学生のときからミニ四駆やラジコンを触りまくっていました。特にラジコンが大好きで、「ラジコンに乗りたい!」って思っていたぐらいです(笑)。

ー僕も同世代ですから、たぶん好みはかなり近いですよ。

芦田 ● ホーネットとかグラスホッパーとか……。

ーわかる!(笑)

芦田 ● ラジコンのレースや仕組みを教えてくれるテレビ番組『タミヤRCカーグランプリ』はかじりつくように観ていましたね。お年玉なんて、もらったその日に握り締めて模型屋にダッシュしていました(笑)。

ーそこからどんどん深みに?

芦田 ● 高校に入ったときは、おかん(※関西弁でお母さんの意)の原付ぐらいなら余裕で修理できるレベルでした。その気になればバラせたでしょうね。

ーモーターエンジンが載っていて、ハンドルとタイヤがあるものに夢中だったんですね。

芦田 ● そうですね、たまらなく好きでした。で、高校に入って、車に魅了されちゃいまして。

ーどんなタイプが好きだったんですか。

芦田 ● いろんなものに乗りましたね。走り屋系やローライダー系など、多種多様です。あるときミニにハマっちゃったんですよ。事故で動かなくなったミニを発見し、5万円で買って整備工場でコツコツ修理しました。

ーそれはすごい。

芦田 ● でも、最後は燃えてまいました(笑)。

ーなにやったんですか(笑)。

芦田 ● ミニって、ラジオのスイッチとヘッドライトがリレーをかまさんと直結していてですね、ラジオのスイッチをオンにした途端、電流オーバーでスイッチが燃えまして。さらに木製のダッシュボードに引火して炎上してしもたんですわ(笑)。

ーどこで燃えたんですか?

芦田 ● 高速道路上で、です(笑)。ちょうど加古川と高砂のあいだぐらいで、バンドの練習に行く途中やったんすよね。

ーおっと、面白い話が出てきましたね。バンドをやっていた、と。

芦田 ● ええ、20歳から渡米する25歳ぐらいまで、ですね。ドラマーでして、最近はたまに結婚式なんかで披露する程度ですけど。それでも当時は「音楽で食っていくか、ハーレーで食っていくか」で悩んだときもありました。

ーここでハーレーの名が出てきましたね。芦田さんと言えば、姫路の広畑日産自動車のハーレーダビッドソン事業部(ハーレーダビッドソン姫路)でハーレー専門のメカニックとしてのキャリアをスタートされたわけですが、自動車整備工場から広畑さんに移られた流れは?

芦田 ● 確か20歳ぐらいのときで、勤めていた工場の社長とケンカになったんですよ(笑)。エアコンの修理方法で口論になりまして、取っ組み合いの一歩手前までいって、「もうこんなとこ辞めたるわ!」と飛び出しちゃったんです。まぁ、当時はアホやったんですわ(笑)。

ー流しづらいなぁ(笑)。

芦田 ● あ、でも今はその社長とは和解しましたよ。僕が謝りに行ったら、「あのときのお前の悪いところは、そのまま飛び出して行ってしもたことや」って社長に言われました。

ーそれから、同じ自動車を取り扱う広畑さんへ?

芦田 ● いえ、すぐにではありませんでした。飛び出した後、「警察官になろう」と思い、公務員試験を受けるために半年間猛勉強をしまして。それまで遊びまくっていた自分が、一歩も外に出ないほど。

ーどうして警察官になろうと思ったんですか。

芦田 ● うちは3人兄弟なんですが、長男が国税官で、次男が救急救命士、そして末っ子の僕がボンクラという(笑)。ただ、このときは彼らの背中を追いたいと思って、困難に立ち向かったんです。

ーえーっと、今の芦田さんを見れば結果は言わずもがな……。

芦田 ● ええ、見事落ちました。やっぱり世の中そんなに甘くありません(笑)。

ー落ちた原因は。

芦田 ● 要するに学歴ですね。募集要項には「高校卒業程度の学力があれば」と明記されているんですが、やっぱり高校をきちんと卒業していないと、面接にすら進ませてももらえないらしくて。関係者に問いただしたら「そら君、(募集要項に)そうは書いてあるけど、高校を卒業せんと試験受けに来るようなやつ、普通はおらんで」って言われまして(笑)。まぁ、実際は点数も足りていなかったと思いますよ。

ーそこで、気持ちは折れた?

芦田 ● ボッキリ折れましたね(笑)。「通信制でもいいから高卒資格を取れば受かるで」って言われたんですけど、昔からのクセと言いますが、目的と合致していないことには打ち込めない性格でして(笑)。「これ!」って決めたときの集中力はすさまじいんですけど、漠然と「世界史をやれ」とか「数学をやれ」と言われても、「なぜそれをやらないといけないの」と問うてしまうんです。「将来のためだ」とか言われると、「どうしてあなたに僕の将来が分かるの」なんて言うてまう人間だったんですよねぇ。中学生の頃から「目的意識のないことはできん」と言って、担任の先生には嫌われていました(笑)。

ーで、志が折れた芦田さんは、広畑日産自動車の門を叩いて再び自動車の世界へと戻っていった、と。

芦田 ● 試験に落ちた後の親父の言葉がキッカケでしたね。「無理をして公務員になる必要はない。お前は職人気質なところがあるし、会社の長にもなれる素質があるから、好きな世界に進め」と。あ、「そもそもお前は公務員に向いてへん」とも言われました(笑)。

ーそして広畑自動車に。最初は自動車部門で?

芦田 ● ええ、経験を買われて、自動車部門に配属されました。それから1年後、ハーレーを取り扱っている谷口さんから「(自動車部門に)えらい仕事できるやつがおる」と見初められて、引っこ抜かれたんです。

ー四輪から二輪へ、しかもハーレー。抵抗感はなかったんですか。

芦田 ● なかったんですよ。もちろんバイクは昔から大好きで、なかでもアメリカン系バイクが好きやったんで、「ハーレーを触ってみたい!」と思っていました。

ーどうしてアメリカンが好きだったんですか。

芦田 ● ご存知かと思いますが、地元・姫路には暴走族が多く、友人にも所属している者がおりまして(笑)。しかしながら僕はどうしても彼らがカッコいいとは思えず、その反発もあったのでしょう、「バイクならアメリカン以外はあり得ない」っていうほどでした。だから抵抗なく「やらせてください」と、すんなり異動しました。

ー時系列でいうと、渡米したのが25歳ですから、22歳から約3~4年ほどハーレー部門で働いておられた、と。バイクはご自身でお持ちだったこともあって、特に勝手が違って困った、ということもなく?

芦田 ● なかったですね。ホンダ・スティードやヤマハ・ドラッグスターに乗っていましたんで。一時は車2台、バイク3台所有というむちゃくちゃな生活していましたから(笑)。駐車場に入らへんから、近所から苦情が殺到したりとかありましたよ。

ーいや、そこらへんの話はよろしいですわ(笑)。逆に、ハーレーに触れるようになって楽しかった?

芦田 ● 楽しくて仕方なかったですね。それまで触っていた国産系とは違った発見が多くて、楽しみながら仕事をしていたのをよく覚えています。

ーで、ここでターニングポイントとなる渡米の話が出てくるわけですが、キッカケは何だったんでしょう。

芦田 ● 2003年のハーレーダビッドソン創立100周年記念に実施されたサマーディーラーミーティングで、アメリカ・ミルウォーキーの本社に招かれたことです。世界各国のディーラーが一堂に集まる大イベントだったんですが、初渡米だったからか、本場の雰囲気や現地の正規ディーラーなど見るものすべて、自分のなかのイメージをはるかに超える迫力があって、とにかく圧倒されました。

ー特にインパクトを受けたのは?

芦田 ● 本場ディーラーのスケールの大きさですね。清潔感があってカッコよくて、整備スペースでも『エアロスミス』とかがガンガンかけられていて、「こいつら、めちゃめちゃカッコええ!」と。自分が携わっている仕事がこんなにカッコいいもんなんだと、改めて教えられた気分でしたね。その衝撃から、強烈にアメリカという国を意識しはじめました。

ー日本のディーラーとの違いは、どんなところに感じられたんですか。

芦田 ● いやね、そんときは僕もアホやったんで、そんなこともロクに考えず「俺、絶対アメリカに来る!」という決意だけ固めていました(笑)。そこで強い目的意識ができて、それまでやったことがなかった貯金を始めたんですよ。車やバイクはもちろん、酒もタバコもやめて、コツコツ貯めていきました。

ーそれまで湯水のごとくお金を使っていた人が(笑)。

芦田 ● そうなんですよ、それぐらいアメリカに人生観を変えられました。

ーそれほど気持ちを固められ、そして渡米に向けていろいろと調べごとをされた……。そんな折りですよね、VIRGIN HARLEY.com との接点ができてきたのは。

芦田 ● ええ、そうです。ちょうどその2003年頃から、ターミーさん(VIRGIN HARLEY.com 前編集長)がちょくちょくお店に足を運んでくれてはったみたいですね。でも当時の僕はまだ駆け出しのメカニックで整備場に籠りっきりだったので、ショールームで谷口さんと話している彼との接点はありませんでした。それから数年経ったぐらいですかね、整備スペースに降りてきたターミーさんとも話をするようになって。そんな折りに、「僕、実はアメリカに行こうと思っているんですよ」って話が出たんです。

ーちょうど決意を固められた時期だったんですね。それで、アメリカ修行コラムの依頼が?

芦田 ● いえ、実はオファーを出したのは僕の方なんです(笑)。「こういうのって、記事にできたりしませんか?」と言ったら「なるほど、それは面白いかもね」と受けてくれて、あのコラムになっていくんです。

人生観を変えた2年間のアメリカ生活
そしてさらなる飛躍を語る

ー渡米に向けての流れはどんな風だったのでしょう。

芦田 ● しばらく英会話教室に通った後、AZSS の「メカニックアメリカ留学プログラム」にて、英語留学という形式で渡米しました。詳しくはアメリカ修行コラムをお読みいただければと思いますが、最初は現地にて自力で就職先を探すもすべて撃沈、結局AZSSの手助けから、日本人に理解があるというアリゾナの アローヘッド・ハーレーダビッドソン というショップへの就職が決まりました。

ーワーキングホリデーでは行けなかったんですか。

芦田 ● メカニックでの就労ビザって許可が降りないんです。「メカニックが日本人である必要がない」ということで、そらそうですよね(笑)。僕がお世話になったAZSSのプログラムは「アメリカ独自のマネジメント方法を、日本の正規ディーラーにフィードバックするため」という大義名分があったから成立していたんです。

ートータルでのアメリカ滞在期間は。

芦田 ● 英語学校が6ヶ月、メカニックとして勤務した修行期間が18ヶ月と、計2年ですね。1年2ヶ月を過ごしたのち一時帰国したんですが、アローヘッドでの就業を終えた後、ラスベガス・ハーレーダビッドソン に移籍したので、期間延長した感じですね。ちなみに、このプログラムでディーラーを2件渡ったのは僕を含め2人しか前例がないそうです。

ー偉業じゃないですか。

芦田 ● 確かにほかの人以上の経験を積むことができましたが、その分苦労したことも数え切れず……(笑)。とにもかくにもめまぐるしくて、濃厚な2年間だったという印象ですね。

ー芦田さんをそこまで変えてしまったアメリカ、そして H-Dラスベガスの厳しさは想像を超えます。

芦田 ● アローヘッドでも“できへんやつは一週間で去っていく”、そんな世界でした。ラスベガスでもそうですが、「9ヶ月間でどれだけ結果を出せるか」を常に考えながら働いていましたね。とにかく時間がない、そればかり思っていました。向こう(アメリカ)ではメカニックを「A」「B」「C」「D]でランク分けしていて、「D」のままだとそのうちクビ。逆にランクがあがり、指名を受けたりして大きな仕事をすれば、歩合制なんでがっぽり儲けられるんです。僕はアローヘッドで工場診断のスペシャリストを目指し、ランクAまで行けたんで、みんなから信頼を得られましたね。

ー診断書も英語で筆記ですよね。会話も含め、語学留学が役立ったんですか。

芦田 ● いえ、大して役に立ちませんでした、気がついたら喋れるようになってたんです(笑)。人間、追い詰められたらすごい力を発揮するもんです。

ー追い詰められていた感、ヒシヒシ伝わってきます(笑)。

芦田 ● ラスベガスH-Dに行こうと思ったのは、そこにエンジンチューニングの第一人者であり、アメリカ人もが一目置く日本人メカニックのヒロ・コイソさん(小磯博久氏)がいたから。アローヘッドでひとつ結果を出し、「俺、結構やれんちゃうん」と思って、コイソさんに勝負を挑もう!と。

ー結果は?

芦田 ● ボッコボコにされました(笑)。コイソさんにはまったく敵わなかったです。

ーそれでもラスベガスで9ヶ月間過ごし、そして帰国。その後、ハーレーダビッドソン昭和の森、そしてここハーレーダビッドソン シティ中野と、約4年日本で働かれているわけですが、アメリカと日本のディーラー、決定的に違うところは。

芦田 ● とにかく“作業が早いこと”です。すべての作業が合理的で、無駄なく進んでいくのでそのスピードについていくのがやっとでした。日本のディーラーと比べたら5倍以上のスピードと言っていいですね。

ーそんなに早いんですか!

芦田 ● 特に無駄を省いた早さはハンパなかったですね。そこを国民性の差というとそのとおりでもあるのですが……。両方の国で仕事をした者だからこそ感じるところでしょう、日本人の良いところはきめ細やかさですが、アメリカの観点から見たら“費やす時間が多くて、遅くまで残業をして、効率が良いとは言えない”といったところですかね。アメリカはそうしたマイナス面を徹底的に排除して、いかに効率よく業務をまわしていくかを突き詰め、ある意味大量生産でもしているかのような無駄を省いた作業工程になっているんです。そこでの課題は「どれだけミスをなくして、無駄を省いていけるか」。こうしたやり方についても良し悪しはありますし、日本人にすんなり溶け込むやり方かと言われれば疑問の余地があるのですが、限られた人材と時間を効率よく使うことを大前提とした場合、“アメリカ流”に軍配が上がりますよね。

ー芦田さんの体には、そうした“アメリカ流”が染み込んでいるんですね。

芦田 ● 特にラスベガス H-Dは「業務の効率化こそ最大のミッション」とでも言うかのようなスタンスで、そこで徹底的に叩き込まれました。日本のメガディーラーがちっちゃく思えるほどの規模を誇っていたので、だからこそだったんだと思います。メカニックだけで言えば15人強、全スタッフで100人以上いたんですよ。

ー作業の効率化という点で、特徴的なところを挙げるとすると。

芦田 ● それぞれのメカニックが専門の分野を持っていて、振り分けられていることですね。例えばレーシングバイクを手がける人間はそこに専念し、ほかに点検専門や診断専門など、部門化されて独立していました。それぞれにひとりずつ(もしくはそれ以上の)専門メカニックが配属されているので、専門性が高まることからミスの減少や業務のスピードアップにつながっていたんだと言えます。

ーそこで揉まれた芦田さんにとって、日本との違いは顕著に感じるんじゃないですか。

芦田 ● 答えにくいことを聞きますねぇ(笑)。まぁ、あえて言うとすれば、組織形態の違いに尽きるでしょう。すべて役割分担されているアメリカと違い、日本では「スタッフ全員がショップの全業務に携わる」という形式ですから、(アメリカと)同じにはならないですよ。

ー先ほどメカニック留学プログラムの大義名分が「アメリカのマネジメント法を日本にフィードバックすること」だというお話がありました。実際にフィードバックできた手応えはありますか。

芦田 ● 正直、厳しいというのが現状ですね。現在ここ(H-Dシティ中野店)では整備の最高責任者として扱っていただいていますが、大きな組織構造の変更となると、もう会社の社長にでもならない限り不可能です。日本という国で、日本人だからこそのスタイルなのだと言えばそのとおりなのですが、「ちょっとやり方を変えるだけでよくなるのに……」という思いはあります。

ーそれは、やはりアメリカで最高の世界を目にし、体感したがゆえ?

芦田 ● そこに他なりませんね。「これこそ」という世界に触れてしまったために、ジレンマに陥ることもしばしばあります。

ー今後はどんなところを目指されるんですか。

芦田 ● やっぱり独立ですね。自分ひとりですべてまかなえるショップを持ちたいという願望はあります。

ーカスタムショップ?

芦田 ● いえ、整備やメンテナンスをメインとするチューニング屋ですかね。カスタムもやると思いますが、自分はチョッパーとかあまり好きじゃないんで(笑)。

ーそうでしたね(笑)。もうディーラーを渡り歩くことはない?

芦田 ● 「34歳までに独立する」が自分の目標で、現在32歳、カウントダウンが始まっているようなものです(笑)。

ー渡米からここまで駆け足で生きてこられた感が印象的なんですが、その原動力は何でしょう。

芦田 ● パッション(情熱)ですかね。ともにアメリカに渡ったAZSSの仲間も、ひとり辞め、またひとり辞め……と、まわりからいなくなっていきました。そんななかで自分がやってこれているのは、ハート以外の何物でもないかな、と思います。特に贅沢がしたいとか、金儲けがしたいっていう欲求はないんですよ。独立しても、自分が望む仕事ができて、質素でコンパクトに生活ができれば十分だと思っています。

ーこれからもハーレーの世界で生きていく、と。芦田さんの今後、楽しみになりました。あ、まだまだ VIRGIN HARLEY.com は芦田さんに絡んでいきますからね(笑)。

芦田 ● ええ、是非(笑)。

Interviewer Column

いつも笑っているけど、話が熱を帯びてくると、それまで見せなかった熱いハートが顔を覗かせる――それが、僕が知る芦田さんという人物。彼の屈託ない笑顔は、内に秘めたるマグマのような情熱を見せないための仮面なのだと知ったとき、時期を見て彼にきちんとインタビューのオファーを出したいと思った。本文中でも述べたが、本場アメリカで目指すべき頂を見てしまったがゆえに、「こうすれば、もっと仕事に幅ができ、メカニックとしての自分をブラッシュアップできるのに」という葛藤を抱くようになってしまった芦田さん。しかしそれも、ワールドクラスの世界観を持っているからこそ。 明確な目標を掲げ、そこに向かってなりふりかまわず突き進んでいけば、それまで見えなかった新しい世界が開けてくる……その大切さを思い出させてくれた取材となった。この記事が彼の叫びをどこまで表現できたか、正直自分でも悩ましいところではあるけど、日本のハーレー界をより良くするための一端を担えるものになれば幸いである。

文・写真/VIRGIN HARLEY.com 編集部 田中宏亮
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