VIRGIN HARLEY |  ニコラス・ペタス(K-1ファイター)インタビュー

ニコラス・ペタス(K-1ファイター)

  • 掲載日/ 2009年05月27日【インタビュー】

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“青い目のサムライ”が明かす
これまでの人生とハーレー観

「K-1 JAPANグランプリ 2001」で見事チャンピオンに輝き、その名を日本中に轟かせた屈指のK-1ファイター、ニコラス・ペタス。現在は現役選手として修行に勤しむかたわら、若手の育成にも力を注いでいる。そんなペタスがハーレーに乗っていると聞き、彼の元へ向かった。そこで耳にした話は、プロフェッショナルとして生きる彼の格闘人生の光と闇、そして決して切れることがない愛車FXSTDソフテイル・デュースとの深い絆だった。

Character

アメリカ人の父とデンマーク人の母を持つデンマーク出身の格闘家。少年時代より空手の稽古に勤しみ、18歳だった1991年に来日。極真会館総裁大山倍達(故人)の内弟子となり、過酷な千日修業に挑む。苦しい修行生活にも負けずに着々と実績を重ね、全世界空手道選手権大会で5位に入賞。1998年からヘビー級を中心としたキックボクシングイベント「K-1グランプリ」に参戦。2001年に開催された「K-1 JAPANグランプリ」では見事王者に輝く。現在も現役の格闘家として日々精進しつつ、東京都世田谷区用賀にある「A.E FACTORY」で後輩の指導にあたっている。テレビや映画、コマーシャルなど幅広い分野で活躍中。そのアグレッシブなファイティングスタイルから、「青い目のサムライ」と呼ばれている。

ニコラス・ペタス / NICOLAS PETTAS

  • 格闘家
  • 生年月日/1973年1月23日生まれ
  • 出身/デンマーク(父:アメリカ人 / 母:デンマーク人)
  • 所有ハーレー/2001年式 FXSTDソフテイル・デュース

Owner’s Harley – Davidson

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2001年式 FXSTDソフテイル・デュース

「K-1 JAPANグランプリ 2001」でチャンピオンになった年に、新古車で購入。決め手は太いリアタイヤと、ソフテイル特有のリジッド風フレーム。全体的にはライトカスタムで、ピンストライプが入ったオリジナルのフレア塗装でタンクを塗り替え、ハーレーダビッドソンのロゴはあえて外している。曰く「ハーレーだったら、ロゴなんて見なくても音で分かるだろう」。ドラッガースタイルがお気に入りで、「ハーレーに一番似合うのはこれだと思っている」と、ハンドルもドラッグバーに変更。マフラーもスクリーミンイーグルのスリップオンマフラー・ショットガンスタイル・スラッシュカットを採用するなど、スタイル重視のカスタムをしている。今後はシートの革にカービングを施してオリジナルのパターンを入れたいそうだが、今はスズキ隼でドラッグレースに挑むことに夢中になっており、シートカスタムはまだ先のことになりそう。「でも、一生付き合うバイクだから焦っていないよ」と笑顔で語る。

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【左】ネットオークションで落札したという出所不明のドラッグバー 【右】「ハーレーらしく見せたい」と、タンク、フロントフェンダー、リアフェンダーにフレア塗装を施した
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【左】マフラーはスクリーミンイーグルのスリップオンマフラー・ショットガンスタイル・スラッシュカットを採用 【右】H-D純正のダイヤモンドプレート・フットペグキットを装着している

Interview

修行に明け暮れた日本での日々
格闘家として絶頂期を迎えたK-1時代

ー出身地はデンマークなんですね。

ペタス ●アメリカ人の父とデンマーク人の母を持つハーフで、国籍は両方持っています。生まれはギリシャで、僕が3歳のときに父が亡くなって、それで母と兄の家族3人で母の故郷デンマークに戻ったんです。

ー来日したのは、18歳のときだとか。

ペタス ●そうです。今が36歳なので、ちょうど人生の半分を日本で過ごしています。もちろんこれからも日本で暮らすので、どんどん長くなっていきますよ。

ー18歳という若さで日本に来られた理由は。

ペタス ● デンマークで暮らしていたときから空手を習っていて、大山倍達という極真会館総裁の内弟子になるため来日しました。デンマーク時代の僕は空手に没頭していて、本当に空手バカでしたね。するとある日、道場の先輩から「ニコラス、それほどまでに空手に打ち込めるのなら、日本へ行って大山倍達の内弟子になればいいじゃないか」と言われたんです。その当時、僕にとって大山倍達という人は伝説上の存在で、そんな人の内弟子になれると分かった途端、「ぜひ日本に行きたい!」と強烈に思いました。ちょうどデンマークでは高校1年生になったときだったんですが、すぐさま学校を退学し、それから日本に行くためのお金を稼ごうと、アルバイトをしました。

ー家族の方は反対されなかったんですか。

ペタス ●それはなかったですね。母も国際結婚をした人だし、やると決めたら必ず実行してしまう僕の性格を理解してくれていたので、「若い今だからこそ海外へ行けばいい」と送り出してくれました。

ーそれで日本に来て、極真会館の道場に住み込みで修行に勤しんだんですね。

ペタス ●修行は3年におよびました。その環境は、想像以上に厳しかったです。特に大山総裁の内弟子であることのプレッシャーが大きかった。彼ほどの人の下で修行をするとなると周囲の注目を集めますし、何より総裁に恥をかかせてはいけない。毎日がそんな緊張感に包まれていました。

ー日本の生活環境への対応も大変だったでしょう。

ペタス ●特に最初の1年がキツかったですね。日本語も話せないし、日本食も初めて食べるし。食事のとき、いきなり目の前に生卵と納豆が出てきて、面食らいました。生卵なんて食べたことがなかったし、納豆なんてもってのほか。「これをどうしろっていうんだよ」って困惑しましたが、流し込むように無理やり食べました。食べないと体重は減るし、ハードな修行を乗り越えられませんから。当然外食するような時間もお金もなかったので、出されたものを食べるしかありませんでした。外国人なら必ずぶつかる壁なのですが、とにかく日本語を覚えて、「絶対最後までやり遂げてやる、諦めるものか」と、3年間の修行をまっとうすることに専念したんです。まぁ、時が経つにつれて環境にも慣れてきましたけどね。今では納豆も大好きですよ。

ーそうして、3年間の修行を完遂したのですね。

ペタス ●外国人で最後まで成し遂げたのは僕だけなんです。なぜならば、僕が卒業した一ヵ月後に大山総裁が亡くなられましたので。だから僕は、「大山倍達最後の内弟子」と呼ばれているのです。

ーその後、K-1グランプリに参戦されたのですか。

ペタス ●いえ、すぐにではないです。確かに僕が卒業した時期にK-1グランプリが始まりました。僕と同じヨーロッパ出身の空手家アンディ・フグさんが活躍していた時代ですね。ただ当時、K-1に参戦する空手家というのは、仲間内からあまりいい目では見られていませんでした。僕自身も「こんな格闘技イベントなんて」と、否定的な目で見ていました。

ーペタスさんは、違う道を選ばれたんですね。

ペタス ●僕はあくまで極真会館の空手家としてやっていこうと決め、1995年、22歳のときに空手のヨーロッパ選手権(重量級)で優勝したんです。その後、第6回全世界空手道選手権大会で5位に入賞するなど、着実に結果を出していました。その後も日本で修行を積んでいたんですが、あるとき自分の中で「何かを変えたい」と思うようになっていました。ちょうどそんなとき、K-1から参戦オファーを受けたんです。海外での合宿費用も負担してくれるなど、非常に魅力的なオファー内容だったので、「一度やってみよう」と。そのとき僕は26歳と若く、「かなりいい成績を残せるんじゃないか」とタカをくくっていましたね。

ーいざK-1に挑んでみると…。

ペタス ●ええ、KO負けを喫しました。敗因は明確で、キックの基礎ができていなかったんです。そこで初めて「俺はK-1を侮っていた」と感じさせられました。その反省から、アメリカへ渡って半年間ボクシングとムエタイの修行を積み、キックの基礎を徹底的に叩き直しました。

ーそして、再びK-1に挑戦されたんですね。

ペタス ●その修行の成果でしょう、K-1でも自分の実力が通用するようになり、2000年にはかなりの試合数をこなせ、さらに結果も出せるようになりました。そして2001年に開催された「K-1 JAPANグランプリ 2001」に参戦し、決勝戦で武蔵選手を倒して優勝しました。そこで優勝賞金を手にしたのですが、今までの給料2年分に相当するようなすごい額でしたよ。さらにメディアからのオファーも舞い込むようになったんです。そんなときに、愛車FXSTDソフテイル・デュースを購入しました。

ーバイクへの興味は、以前から持っていたのですか。

ペタス ●はい。1999年まで道場の近くに住んでいたのですが、ちょうど子供が生まれ、広い家に住もうと道場から離れた場所に引っ越しました。自転車で通うには距離があるし、電車通勤するにも不便な場所だったので、原付バイクを1台購入したんです。そうしているうちに、「大きなバイクに乗りたい。それも、乗るならハーレーだな」と思うようになりました。ハーレー以外は考えられませんでしたね。

ーその優勝賞金で購入されたんですね。

ペタス ●そうです。あのときは、僕の中のバブルでしたからね(笑)。お店でデュースを見た瞬間「気に入った!」って、勢いで購入しました。

K-1ファイターの前に立ちはだかった
攻略困難なバイク教習項目とは

ー大型自動二輪免許を取得しに、教習所に通ったんですか。

ペタス ●いえ、日本の教習所には行かず、一週間ほど休みを取ってアメリカへ渡って向こうで免許を取得しました。僕はアメリカ国籍を持っていますし、アメリカの方が簡単に免許を取得できるから、というのが理由です。僕のセコンドを勤めてくれていた兄と渡米したんですが、インターネットで調べた試験の出題ケースを、飛行機の中で兄とテストしながら向かいました(笑)。到着するなりすぐに筆記試験を受けに行き、一発で合格しました。これに通ると、アメリカでは夜間や高速道路以外での路上走行が許可されるのです。それから安い中古バイクを2台買い、実技試験までひたすら練習しました。アメリカには大きい駐車場がいくらでもありますからね。

ー教官なしでの練習は、コツを掴むのが大変だったのでは。

ペタス ●気合いですよ、気合い(笑)。その後、実技試験にも合格して、晴れてアメリカの自動二輪免許を取得できました。それから国際免許を交付してもらって、帰国したんです。「これでハーレーに乗れる!」と、すごく嬉しかったですね。

ーそれからずっと、国際免許で走っていたんですね。

ペタス ●ところがあるとき、道路交通法の改正があって、日本に在住している外国人が国際免許だけでバイクに乗ってはいけないと知らされたんです。調べてみると、アメリカで免許を取得した人間の場合、過去三ヶ月のあいだにアメリカで運転していた履歴があれば免許を書き換えるだけでいいんですが、そうでない場合は日本で新たに免許を取得しなければいけない、ということでした。

ーそれからどうされたんですか。

ペタス ●「さすがに今から教習所に通うわけにもいかないしな」と思い、鮫洲運転免許試験場(東京都品川区東大井)へ一発合格を目的に試験を受けに行きました。車の免許は日本で取得していて、筆記試験はクリアしていましたから、実技だけでした。

ー試験所でのテストは難しかったでしょう。

ペタス ●難しすぎますよ、日本の試験は。特に一本橋! 教習所に行ったことがないから初めて走ったんですけど、あんなの走れないですよ!(笑) しかも10秒以上乗っていないといけないとか言われるし。ムリだよ、あんなの! 結局一本橋で3回落ちて、3回ともその場で検定ストップされちゃいました。

ー結局、試験は何回受けたんですか。

ペタス ●12回も受けました(笑)。あそこの試験って、完走したら合格できると聞いていたんですよ。それで9回目に完走できて、「受かった!」って思ったんです。ところが不合格。10回目も完走できたけど、また不合格。すごく腹が立ったんだけど、「しょうがない」と気持ちを静め、再チャレンジしよう、と。そして11回目、また完走できたのに不合格。ここで本気でキレちゃいました(笑)。「最後まで完走したんだから、合格だろう! どうして不合格なんだよ!」って、その場で怒鳴っちゃったんですよ。

ーK-1ファイターが本気で怒ったら怖いですね…。

ペタス ●そうしたらそこの警察官が、僕に教えてくれたんです。「ペタスさん、ここは運転免許を取得するところだから内容を教える義務はないんです。だから本当はどこがアウトだったのか教えなくてもいいんですが、こっそり教えてあげよう」と。

ー警察官も怖かったんですかね(笑)。

ペタス ●そう言って、それまでの試験の点数を見せてくれたんです。それを見たら一目瞭然でした。僕が合格できなかった理由、それは「障害物を避けるときに合図を出していなかったこと」だったんです。車道を越えて障害物を避けるときは、合図を出さなきゃいけないんですよね。

ー教習所では、必ず習う事項ですが…。

ペタス ●そう、これも教習所に行っていなかったから知らなくて。実際には、障害物といっても3本のコーンが立っているだけなんです。だから僕はただ単に「邪魔だなぁ」と思って横切っていただけでした。でもそれができていないだけで、マイナス30点なんですよ。大きいですよ、30点って。

ーなるほど(笑)。あれはコーン3本ですが、駐車車両という認識で避けなければいけない場所ですからね。

ペタス ●「もっと早く言えよ」ってねぇ(笑)。おかげで次の試験で合格できましたよ。その当時、池袋に住んでいたんですが、真夏、鮫洲まで原付で1~2時間かけて何度も通いましたからね。

ー合格するまで、ずっとハーレーに乗れずに原付に乗っていた、と。

ペタス ●ホント、悔しくてしょうがなかったよ。特に一本橋! あそこで落ちるたびに「ハイ、終了」ってアナウンスされるんですよ。まぁ、今にして思えばちゃんと教習所に通えばよかったと思うんだけど、あのときは「合格するまで、絶対教習所には行かない!」って決めていましたからね。

ーさすがプロフェッショナル、負けず嫌いですね。

ペタス ●そう、ドMなんですよ、僕(笑)。

ーK-1ファイターがドMって(笑)。新しいハーレーに乗り換えようと思ったことはないのですか。

ペタス ●ないですね。このデュースは僕と一蓮托生だから。

ーそれは、その当時のペタスさんの活動ともリンクしているんですか。

ペタス ●そうです。2001年にK-1 JAPANグランプリでチャンピオンになったものの、その後の試合では、鼻を折られる、食中毒にかかったまま試合に挑んでKO負けする…。スランプに陥りましたね。そして、2002年に富山で開催された「K-1 SURVIVAL 2002」でセルゲイ・グールと対戦したとき、右脛を骨折してしまったんです。どん底でしたね。

ーそんな時期を迎えていたんですね。

ペタス ●最悪の時期が続き、「これは何かを変えなきゃいけない」と思って、極真会館をやめました。ひとりの格闘家として、自分の足で歩いていこうと決めたのです。さらに自分自身の生活観自体も変化を余儀なくされました。本当にこのときは、人生の山と谷を味わったな、と今でも思います。「落ちるときというのは、こんなにも落ちるのか」というほどに。

ーそれほどの落差を…。

ペタス ●収入が激減してしまい、絶頂期に購入した車とかも売ったりしました。いろんなものを切り詰めながら生活をしていき、最後にこのデュースが手元に残ったんです。そして、「最後にコイツを売って、デンマークに帰ろう」と思うようになっていました。そしてある夜、お酒を飲んですごく酔っ払い、「明日、ハーレーを売りに行くぞ!」と妻に言ったんです。そのお金を飛行機代にして、デンマークに帰ろう、と。

ーそれで……。

ペタス ●でも、売れなかった。何かが僕を引き留めたんです。そうしたら数日後、新しい仕事のオファーが入りました。それで新しい収入ができ、デュースは僕の元に残りました。その後、合わせて3度売ろうとしたときがあったんですが、いずれも売却しませんでした。

ーそんな経緯があったんですね。

ペタス ●3度目のときは、もう本当に売りに行こうとしたんですが、やはり当日になって躊躇ってしまって。するとその翌日、とある人との出会いがあり、今指導者として携わっている「ザ・スピリット・ジム」を持つことができました。おかげで生活は安定し、こうしてデュースと一緒にいられるんです。だから僕にとって、デュースは絶対に手放しちゃいけないものなんですよ。

ー掛け替えのない愛車なんですね。

ペタス ●思えば、デュースは僕のいいときも悪いときもそばにいてくれました。コイツは僕から一生離れない存在なんです。

ーツーリングに行かれたりもするんですか。

ペタス ●もっぱら通勤ばかりですね。1日40~50キロぐらいは走っていますよ。今はスズキの隼も持っていて、ドラッグレース用に使っています。

ー格闘家としての活動も充実しているのですね。

ペタス ●今は指導者として、コウイチ・ペタスという後輩をコーチングしていて、彼はムエタイの世界チャンピオンに輝いたんです。現在2010年のK-1参戦を目指して修行中です。もちろん僕もまだまだ現役ですよ。そもそも格闘家が引退することなどありませんから、オファーがあればいつでも参戦準備を整えられますよ。

ー最後に、これからハーレーに乗りたいと思っている人へメッセージがあれば。

ペタス ●男だったら、迷わないだろ。ハーレーに乗りたいと思えば、乗ればいいんだよ。買ってしまえば、何とかなるんだよ。俺の人生がそうだったんだから、思い切って行けばいいんだよ。

Interviewer Column

“盛者必衰の理をあらはす”とは『平家物語』の有名な一言だが、プロのスポーツ選手というのはこの言葉が示す人生の起伏を、わずかな現役生活の中で一気に味わう。その激しさは、一般人の感覚では分かりえないものだ。今回の取材でニコラス・ペタスが話してくれた内容には、ともすれば振り返りたくない負の過去も含まれていた。だが彼は何ら恥じることなく、屈託のない笑顔で語ってくれた。K-1にあまり興味がなかったため、彼が王者に君臨した頃のことはまったく分からないが、これだけは言える。ニコラス・ペタスは、チャンピオンだった頃とは比べ物にならないほど強く、優しい戦士だ、と。それにしても、それほどの男を苦しめた教習科目が一本橋だったとは…。

文・写真/VIRGIN HARLEY.com 編集部 田中宏亮
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